まさかの“連続で同じようなネタ”の連続ですよ
という訳ですが、よろしくです。
昨日の記事に続いて、バンドにおいて定番なのであろうギター・ベース・ドラム、の中にピアノが入るとどうしてこんなにもピアノがいつにも増して、そして曲自体魅力的になるのか、東京事変を参考に考えてみました。
3トリオ(ギター・ベース・ドラムの事)は低く力強く、男性的なのに比べ、ピアノは響きが女性的。だから紅一点が美しく聴こえる。
そして、曲にメリハリがつくというか、男性性の中に女性性が加わる事によって、なんつーの・・・男臭さが解消されるというか、音のバリエーションが広がって、曲の世界が大きくなるのはもちろん、ノイズィーなギターがメインだった中にピアノが入るとしっとりするというか、カレーに林檎が入る感じ又は酢豚にパイナップルが入る感じというか(ちょっと違うな)、質が高くなるというか・・・うーん。あれー
要するに紅一点が美しいってことですよ!
そしてそのピアノがスパイシーだったりすると、より「うおっ、いい女!」ってなる訳です。男衆の中で気位が高く、だけどしなやかで美しく・・・。ほれる!
かわいいしかっこいい。こりゃあ林檎さんみたいじゃないか。
私の中の“音楽ブーム到来”ついでに、もうひとつ(あくまでブームなのです。悲しいけど、自分ではどうしようもできない、一瞬の花なのです。(なんか妙にかっこいいな!))
音楽って数学なんですって。「調和」を探求するための手段。「のだめカンタービレ」で言ってました(16巻109ページ参照)
以下、シモンさんの台詞から抜粋。
「アンサンブルの神髄はハーモニー。ようするに「調和」だ。この調和は、古代ギリシャの時代「ハルモニー」と呼ばれ、キリスト教社会になった時「神の作りもうた世界は素晴らしい調和によって創造されている」「その調和の根本原理は数の関係によって成り立つ」それを探求することによって調和の謎が解明でき、神の世界をより詳しく知る手がかりを得られると考えた——音楽の本質は「調和」にあるのだ。それを表現するのが真の「音楽家」なんだ」
もうひとつ、千秋先輩の台詞。
「1500年くらいまえは、神の作った世界の調和を知るための学問が、天文学・幾何学・数論・音楽だったんだ。本来音楽(ムジカ)とは調和の根本原理そのものを指していて、理論的に調和の真理を研究する事が「音楽」だった。中世ではその音楽理論を熟知して「理性の力によって作品全体に対し入念に音楽を判断できる人」を「音楽家(ムジクス)」といって、ただ音を歌ったり演奏する人を「歌い手(カントル)」といった。」
うん、よく分かりませんが(ここまで書いといてそれ)。
私が感情的に「かっこいい!」という衝動に駆られ扱うのとは対局に、大変論理的な存在でもあるようです、「音楽」は。なんて美しい数学なんでしょう。
人の感情が伴い表情のある、時間と音による非物質的な数学。調和のカタチを発見するための方法。リズム・強弱・和音など、様々な材料を複雑に組み合わせて作られる・・・なんて深い・・・
成功かどうかの判断は「美しさがそこにあるかどうか」によって行われるのです。(何か他に、感覚的なものの他に、方程式のようなものがあるんでしょうか。でも方程式があったとしても、それはその音に対しての人の感情の動きを基に作られたものなんでしょうから、これがまたすごい。)
三度の和音(例えばドとミ、レとファ)は、どの音も美しいのに、隣り合う二度の音(例えばドとレ)は不協和音になっちゃうし。これもよくよく考えると不思議だなー。でも一見不協和音である2度の和音も、そこに何か他の音を入れるとすごくスパイスの効いたかっこいい音になりうるし。不思議だ。数学だ。こんなに数学的であるのに、普通の数字による数学にはあり得ない、人の感情を変化させる力を持つ。だって三度の和音は美しいと思えるし、不協和音は気持ち悪いと感じれるし、でも2度+何かの音だと「スパイシーでかっこいい!」って思えるし。そういう感情を全人類が共通して抱けるんですよ。時代も国境も越えて。ああ、すごすぎる。
そしてもちろん音楽はただの音の組み合わせで終わるものではありません。ある楽器特有の音とメロディーとリズムが、別の楽器の別の音とメロディーとリズムと絶妙にマッチし、そこに調和が生まれ、私たちはそれを美しいと感じる・・・なんて複雑、なんて奇跡的なんでしょう!!
「能動的三分間」を聴いているうちに、どのパートの旋律も美しく個性的で自由に流れているようであるのにも関わらず、それぞれは絶妙に絡み合い、補い合い、歌をサポートし、ひとつになっている様に奇跡を感じずにはいられませんでした。あれが人間の頭によって考えられたものだというのが本当に奇跡のようだと、作曲というものが未知のジャンルである私にとってはそう感じられたのでした。
曲の構成そのものも数学的です。音楽はどこまでも数の関係によって成り立っているのですねー。
1つのテーマとなるメロディーがいかに展開され姿を変え、結果どのようにまとまり一つになるか。もしくは一つのメロディーが延々と繰り返される曲もあるし、他にも奇抜な構成でもまとまってしまう曲もある(かもしれないし)。とにかく様々な方法がなされ、それらは常に曲としてまとまる事を目指している。あ、でも今なんとなく「まとまる」って書いてますけど、まとまるっていうのは理論的にどういう事なんでしょうね。なんとなく、聞いていれば「あ、しっくりきた。これでまとまった。」って分かるじゃないですか。例えば一般的な流行歌(言い回し、古!)とかはAメロ・Bメロ・サビ×2回(2回目からは+αで)→最後にサビを何度か・・・みたいな。すっきり腑に落ちて終わるでしょ。なぜ「腑に落ちる」のか。もっと複雑なクラシックとかだと、更に感覚的な判断は難しくなる気がするのですが。これも数式っぽいのがあるんでしょうかね。それとも、小説を読むのと似た感じなのかなぁ。起承転結が成り立ってるかどうかって事?ある事が起こって、展開して、えっここからどうなっちゃうの!?ってなって、結果的に物語は収まり、終わりを迎える・・・。でも小説も起承転結がきっちりしているのが全てじゃなくて、何も無くのんびりと進んでいくのにその言葉自体が気持ちよく、最後にはあー面白かった。って思えるのもあるし。そういえば、いくつかの章によって構成されていて、ひとつひとつの話は短編でこじんまりとしているのに、それが終盤に近づくと一気に全てが繋がって、実はとんでもなく壮大な物語だったなんてお話もあるな。
そうして完成された音楽は、ひとつの壮大な世界をその場に作り上げてしまうからすごい。音楽を聴くだけで、現実的でないどこか別の世界へ行けてしまう。なんて物凄い力を秘めているんだ!
(そのときに低音は現在と音楽の世界とを分断する役割を担い、主旋律がその世界での物語を展開するのでしょう。これもとても理にかなっている。)
音楽は全人類共通の言語であり、ひとつになろうとする習性を持つ・・・だから世界平和に繋がると言われるのでしょうね。きっと、ひとつになって同じものを作り上げていく喜びを教えてくれるのでしょうね。
しかし不思議な存在です、音というのは。
姿が見えないのに確実に存在し、絶大なパワーを持ち生き物の身体にも心にも影響を及ぼす。そしてそれらには美と醜がある。不思議だなー。
話があちこちに飛んでしまったところで、退散!おやすみなさい!
らん





じゃんぴえーる said,
「のだめ」は確かに分かりやすく音楽を説明しています。が、音楽の知識のほとんどが「のだめ」なのは、ちと寂しいですね。
日本人で初めて音楽(クラシック)を言葉で表現したのは小林秀雄であり、それをさらに具現化したのは吉田秀和です。漫画家では宮谷一彦かな。
音楽理論はもちろんありますが、音楽というのはあくまで感ずるものです。
モーツァルトは音楽理論に基づいて作曲したわけではないし、表現者は感じたものを100%表現するために猛烈な練習を繰り返し、聴く側はより深くとらえるために学ぶのです。
「ゴールドベルグ変奏曲」を小学生に聞かせても感動する小人はおそらくほとんどいないでしょう。退屈するか逃げ出すかです。大きな感動というものは努力したものにしか訪れないと僕は思っています。
汗して山に登らない人に登頂の喜びは一生味わえない、という事が全てに通じているのです。
らん said,
申し訳ない事に、のだめでの説明さえもよく理解していません…。あのセリフも最初に読んだだけじゃよく分からず、「音楽の背景には数学がある」と気づいて感動してから理解できたのです。それを「分かりやすい」と言ってのけるのぐちさん、さすが。(いや、私がアレなだけか)
音楽に対する深い理解と知識を得るための努力。残念ながら私にはそこまで極めたいという思いが無い事に気がつきました…。今まで単純に「音」として捉えていた音楽というものの背景には未知なる世界が潜んでいて、それに触れるには大変な努力が必要になる、という事に感動して終わってしまっている私です。
>汗して山に登らない人に登頂の喜びは一生味わえない、という事が全てに通じているのです。
大切な事を教えていただきありがとうございます。
移り気の激しい私には苦手な作業です…。
努力の果てが頂上なら、今はふもとの散歩が楽しいですが、それだけでは味わえない喜びというのがあるのは分かります。清々しいろうなあ。
じゃんぴえーる said,
「幸せです」という言葉も簡単には使わないほうがいいですね。
「楽チンです」と同義語になってしまったのでは、あまりに空しいことです。
らん said,
うう、身が引き締まる思いです・・・。
中身が完成されていないままに、軽々しく言葉を扱うものではないですね。ごめんなさい。
幼さむき出しのこのブログの全記事を削除したい気分ですが、それだと単なる逃げになってしまう気もするし…。
今後、言葉の質を高めていくにはやっぱり成長してゆく他ないのでしょうか。
頭では楽ちん≠幸せと分かっていたはずなのですが、自分の行動や思考やらを振り返ってみたところ、楽ちん=幸せと思っている節が、やはりあるようです。というか、多大にあります。
高校を辞めてから、「ひたすら我慢する事から逃げ、他の道を選ぶのもありではないか」という思いを持っていました。でも実際にやりたくない事があった時、楽ちんな方へに逃げてみても満たされない上罪悪感に苛まれるし…。
思い違いをしてしまっていたようです。
楽ちんの先に、成長も本当の喜びもない。
私の場合、苦しみの中で高校を辞め家で働くというもうひとつの道を選びましたが、それは少なくとも「楽ちん」な道ではなかった(だけど心は苦しみから解放され、「楽」になった)。
つぶれてしまう程苦しい時、ひとまず心がホッとする方へ逃げそこからまた一生懸命がんばるのはひとつの道としてありかもしれないけど、「楽ちん」に走って終わるのでは、ただ逃げただけになってしまう。
逆に、一見やりたくない事だったとしてもそれを乗り越えた後はまさに「汗して山に登った登頂の喜び」(小さい山ですが)を感じます。
でもやっぱり再び壁が立ちはだかると、楽ちんな方へ逃げたくなってしまいますが…。よじ登るしか無いんでしょうけど。
じゃんぴえーる said,
「楽チン」が必ずしも悪いわけではないですよ。
「楽しくなければ続かない」というのも真理です。たぶんそれを測る物差しは自分の中に無くて、外からしか見えないものなのかもしれません。
「らんちゃんって、いつも楽しそうだね」って言われて初めて「ホントに楽しんでたんだ」って自覚できるもの。「ホントに幸せそう、うらやましい」って言われて「あー、間違ってなかったんだ」って気づくのが自然な流れかもしれないでしょう。
僕やお父さんたちだって18歳の頃なんて、何の目標も無かった。ただ何でも出来そうな夢は見させてくれる時代だったかもしれないかな。実際、酒を飲んでる席の横から音楽プロデューサーらしき人が「やってみる?」なんて声をかけられたり、有名なバンドのメンバーが隣で女の子とキスしてたりなんて、日常にあったからね。
ソフトバンクの社長、孫さんのスピーチや、僕のブログにあるスティーブ・ジョブスのスピーチ聞いたら、きっと勇気がわくと思うよ。
孫さんは高校1年くらいで単身アメリカに渡り、死ぬほど勉強したらしい。「たった一つ自信を持って言える事がある。僕はここにいる誰よりも勉強した。」って言ってます。
らん said,
なるほどー。その最中は必死で楽しむ余裕がなくても、終わってみて客観的に見えるようになると楽しんでた…なんて事もありますし…とにかくひたすらやってみる事なんでしょうね。
スティーブ・ジョブスさんのは野口さんのブログで拝見させて頂きました。感動しました。卒業生さん達は幸せ者ですなー。しかし社長からも似た話を何度も聴いたはずなのに、心に染み入る度合いがこうも違うのはなぜだ…(耳が慣れちゃったのかな)。
孫さんのように19歳でもう50年まで目標を立ててしまう人、スティーブさんのように点で繋いで行く人。方法は色々ありますね。私は、とにかく目の前の事をやらなければ(映画やら7月の料理教室やら自動車学校やら…)。やるぞ!
孫さん、死ぬほど勉強したって…一体どれくらいなんだろう。やっぱり、文字通り死ぬほどやったのかな。それくらいに情熱をかけられる事に10代の内に出会える人がちょっと羨ましい…。
コメント頂いて、私の基本理念が「楽をしたい」だという事に気付いたらなんだか色々腹を括れました。ありがとうございます。逃げないでできるかしら…やる、やったるぞー!
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